これらの牧は各令制国毎に牧監(もくげん)が設置され(ただし、武蔵のみは各牧単位で別当が設置)、在庁官人が中央官庁より一定の任期を持って任命されて馬寮及び兵部省によって勤怠状況が監督されていたと考えられている。
毎年8月には勅旨牧から中央に貢馬牽進の儀式である駒牽が行われ、毎年240疋(甲斐60疋信濃80疋上野50疋武蔵50疋、なお武蔵2牧増加後は60疋が追加されて110疋となり、毎年総計300頭となる)が朝廷に献上されて、平安京周辺に馬寮が設定した「飼養牧(しようまき)」に預けられて公務の必要に応じて利用された他、公卿や近衛府などに下賜される場合もあった。
天慶の乱などによる軍事的緊張が高まった10世紀前半に一番の充実が図られたと言われているが、その後衰微した。ただし、その後も馬寮の荘園や牧場として鎌倉期まで残された他、牧監や別当を務めた在庁官人の中には武士として成長する者もあり、信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏末流には信濃小領主から近世大名化した真田氏がいる。また信濃十六牧の筆頭とされる「望月の牧」を支配した望月氏の支流は、飼養牧のあった甲賀の地で甲賀五十三家(甲賀流忍者)筆頭の近江望月氏となる。